府中緊急派遣村

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被災地支援行動第二次派遣隊報告<番外編>

被災地支援行動第二次派遣隊に同行した方から、以下の報告の文章を頂きました。

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連休後半の7日から9日に掛けて、南相馬市鹿島区にいってきました。
 
私たちが同行したのは、三多摩地域で野宿者支援を08年から行っている府中派遣村の人々です。小型ダンプを持ち込んで、瓦礫撤去やドロ出しをしてくるというので、足手まといにならないかと気がかりでしたが、避難所での仕事などもあるから大丈夫といわれ、友人を誘って出かけました。
 
ニーズがあるとお聞きした女性用下着100人分に安全カードをラッピングしたものや、子どもさんようの絵本やおもちゃなど持って行きました。
でも一番感激されたのは、ダンプカーだったかも。
 
鹿島区は距離こそ31KMと強制避難区域から外れていますが、原発から北の方角に当たり、隣の飯館に次いで初期に、実はかなりの被爆があったのではないかと考えられているところの一つです。
その上勿論地震津波の被害も大変なもの。
 
避難所では、鍼灸師さんの治療の予約を取ったり、皆さんの話を聞かせていただいたり、することは本当に沢山ありました。
 はじめは遠慮されていた方々でしたが、いざ治療が始まって終えられた方の気持ちよさそうな顔や感想に出会うと、「んじゃあ俺も」と、次々と希望が殺到しました。
 避難所になっているホールの入り口に、一人当たりたたみ1畳分くらいの面積を高さ90cm長さ180cmくらいの仕切り板で囲った中で、ずっと寝転んで週刊誌を見ている50代の男性がいました。
その人は大工さんで、親と配偶者さん、息子さん夫婦の家族全員を流されてしまい、残ったのは自分だけ、家のあったところには2回いったけれど、40軒ほどの部落で残ったのは3,4軒、それも1階部分は完全に吹き抜け状態、自分の家はきれいさっぱりない状態、もう2度と行きたくない、どこへ行く気もしない、動きたくもない、仕事があるからと誘われるけれどやりがいがないし、してもどうなるものかと思う避難所は4箇所目、いわれるままに動いているが、もうどうでもいい30分ほど話を聞いているうちに、その方が以前は毎週のようにやってもらっていたので、ハリ治療を受けてみようかといわれました。気が変らないうちにと鍼灸師さんにお願いしました。丁寧に治療を1時間近く受けたとき、顔の印象がずいぶん変って見え、若返ったようでした。ちょうどそこに、遠方に住むという下の息子さんが、妻さんと孫4人を伴って訪問、前回は全く孫に触れようともしなかったというのに、いたずらっ子の2歳の子どもさんを抱っこして嬉しそうでした。先週は口も利かなかった、とその様子を息子さん夫婦は喜んでいらっしゃいました。
勿論タイミングなども合ったのでしょうが、かすかにホッとしました。
 
40人あまりが暮らすデイケアセンター転用の避難所は、独立した8畳の和室があり、そこには夫婦と息子、娘の一家4人のご家族が入っていました。
持ち出せたものは孫が運び出した両親の位牌だけ、あとは手回り品のみ、でも幸いだったのは車3台をそれぞれ夫婦と息子がそれぞれの職場から乗って逃げることができたこと、まだ建て代えてて間がない家は完全にすべて影も形もなく、文字通り一からのスタートだそうです。
4人が一緒にいられるのは何より、とにかく仮設住宅に入ってからゆっくり考えますとのことでした。家族で入っているけれど、大部屋の人に悪いから、ふすまは閉めたことがないそうです。
その部屋を借りて女性用の治療室としました。安心できる空間があったのは本当によかったです。
この避難所では、女性用の下着は機械室を男性立ち入り禁止として、その中に干しているとのことでした。着替えはお風呂に週4日(今週からは週5日になります)入れるので、そのときにとのこと。
 
食事はチームを作って交代で準備をしていたそうですが、若い人には気分転換だったようでも、4.50人分の準備は年齢が高い方にとっては苦しい作業だったようです。
今は地元業者のお弁当やさんが営業を再開したので、そこから運ばれて来ていました。
 
法律相談や精神保健相談、歯科衛生士の口腔ケアなどがひっきりなしに事務所の受付を経て入っていましたが、一番人気はマッサージやはりでした。
眠れていない人が多いようで、心身状態はそろそろ限界という感じでした。でもとにかく仮設住宅に入るまでは、ここでガマンするしかないとのこと。
必要なものはあるし、地獄を見たものからすればここは極楽だという方もいらっしゃいました。これが極楽かアという気分ですが。
避難所のトイレもお風呂も清潔が保たれていました。
 
ただ、一番大きな影は原発でした。何しろ先が見えないのです。ほとんどの方々が兼業農家だったようで、農業、酪農中心の生活が果たして再びできるのか、それともどこか別の場所に落ち着くのか、それが答えの出ない一番の悩みでした。
 
までい-真の手-丁寧に心を込めた仕事の仕方だそうです・・・な仕事でがんばってきたという福島の村の再生、一挙に崩れるというのはなんとも厳しいものです。

長い報告になりました。失礼しました。